全82枚に及ぶ、1960年代にDGに向けに製作されたカラヤンの録音集成である。巨大ブックレットと、録音記録のコピー数枚が付録として付いている。録音記録のコピーは、一見ただの汚い紙なので、捨てられないように気を付けてください。 レコード会社はインターネットを介した音源のデジタルデータ配信が流行りにのり、2015年には、アマゾンよりこのセットの音源のを開始した(ただし4分割)。ブックレットもついているとのこと。...
全82枚に及ぶ、1960年代にDGに向けに製作されたカラヤンの録音集成である。巨大ブックレットと、録音記録のコピー数枚が付録として付いている。録音記録のコピーは、一見ただの汚い紙なので、捨てられないように気を付けてください。
レコード会社はインターネットを介した音源のデジタルデータ配信が流行りにのり、2015年には、アマゾンよりこのセットの音源のを開始した(ただし4分割)。ブックレットもついているとのこと。時代を先取りするのが好きだったカラヤンらしい配信方法である。
箱物セットの流行も行くところまで行ったようで、カラヤンの60年台を含む、巨大セットカラヤンのDG,DEECA音源全集が発売された。
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カラヤンの再考に
カラヤンの60年代は、言わずと知れた楽団の帝王が、本当に帝王であった時代である。ヨーロッパ半島の主要歌劇場をを支配していた絶頂期に当たる。体調はそうでもなかったようだが。
今回のセットは1960年代にDGに残したすべての交響曲と管弦楽曲、協奏曲を集めたもの。各CDを放送する紙のケースは、オリジナルジャケット仕様で、裏面も発売当初の姿を再現。
ただし、オペラ楽劇は入っておらず、別の箱に収められている。なお、カラヤンが60年代にDGおよびDECCAに残したオペラ・楽劇は、以下の通り。
60年代のオペラ録音(セッション)一覧作曲家名 | 作品名 | 管弦楽団 | 録音年 |
---|
J.シュトラウス二世 | こうもり | ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1960 |
ヴェルディ | オテロ | ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1961 |
レオンカヴァッロ | カヴァレリア・ルスティカーナ | ミラノ・スカラ座管弦楽団 | 1965 |
マスカーニ | 道化師 | ミラノ・スカラ座管弦楽団 | 1965 |
ワーグナー | ニーベルングの指環 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1966~70 |
さて、「カラヤンが最も凄かったのは60年代だ」という評は、ネットを少し徘徊すれば五萬と出てくるもので、その全貌を俯瞰するにいい機会だと思った。というわけで、不定期更新の連載という形で書いていこうかと思う。素人だからできる見切り発車の企画である。
ブラームスの一番と、
シュトラウスのワルツ、ポルカ集、
アンダとのブラームスのピアノ協奏曲2番は、すでに書いたが、今聴いてどういった感想が出るのだろうか? という興味があるのでまた書こうと思う。
どうやら、すべてがすべて高い品質を保っているわけではないらしく、中にはカラヤンの体調を気にしてしまうような出来栄えの録音が含まれている。録音日程を見るだけでも、そのスケジュールの過密さはうかがえるので、無理はないということなのか。無論、シベリウスの交響曲のように、比類なき完成度の高さを誇る傑作もあるわけだが。
目次

CD1 R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』CD2 ブラームス、ドヴォルザーク:舞曲集CD3 リスト管弦楽曲集CD4 バレエ音楽集CD5 モーツァルト:レクイエムCD6 ベートーヴェン:交響曲第1,2番CD7 ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」CD8 ベートーヴェン:交響曲第4番CD9 ベートーヴェン:交響曲第5番CD10 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」CD11 ベートーヴェン:交響曲第7番CD12 ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」CD13 ベートーヴェン:交響曲第8,9番「合唱」CD14 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番CD15 ストラヴィンスキー:春の祭典CD16 チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」CD17 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」CD18 ドビュッシー、ラヴェル管弦楽曲集CD19 ブラームス:交響曲第1番CD20 ブラームス:交響曲第2番
CD21 ブラームス:交響曲第3番、ハイドン変奏曲CD22 ブラームス:交響曲第4番CD23 ブラームス:ヴァイオリン協奏曲CD24 ブラームス:ドイツ・レクイエムCD25 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲CD26 ベルリオーズ:幻想交響曲CD27 シベリウス:交響曲第5番、『タピオラ』CD28 シベリウス:交響曲第4番、『トゥオネらの白鳥CD29 J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集(1-3)CD30 J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集(4-6)CD31 J.S.バッハ:管弦楽組曲第2,3番CD32 シューベルト:未完成交響曲、ベートーヴェン序曲集CD33 モーツァルト:交響曲第29,33番CD34 バルトーク:管弦楽のための協奏曲CD35 モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク、他CD36 モーツァルト:ディベルティメントK334CD37 R.シュトラウス:交響詩『ドン・キホーテ』CD38 ラヴェル:『展覧会の絵』,ボレロCD39 ブルックナー:交響曲第9番CD40 ヘンデル:合奏協奏曲1
CD41 モーツァルト:ディベルティメント集1CD42 ヨハン・シュトラウス父子ワルツ集CD43 シベリウス管弦楽名曲集CD44 チャイコフスキー:交響曲第4番CD45 チャイコフスキー:交響曲第5番CD46 ショスタコーヴィチ:交響曲第10番CD47 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲CD48 リムスキー=コルサコフ:『シェヘラザード』CD49 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番CD50 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲CD51,52 ベートーヴェン:ミサ・ソレムニスCD53,54 ハイドン:オラトリオ『天地創造』CD55 チャイコフスキー:序曲『1812年』、他CD56 チャイコフスキー:弦楽セレナード、『くるみ割り人形』組曲CD57 オペラ序曲、間奏曲集CD58 シベリウス:交響曲第6,7番CD59 モーツァルト:ディベルティメント集2CD60 ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
CD61 ヘンデル:合奏協奏曲2CD62 ヘンデル:合奏協奏曲3CD63 リスト:『前奏曲』、スメタナ:『我が祖国』よりCD64 モーツァルト:ホルン協奏曲集CD65 ロッシーニ:弦楽のためのソナタ集CD66 プロコフィエフ:交響曲第5番CD67 ヘンデル:合奏協奏曲4CD68 シューベルト:交響曲第9番D944CD69 ドヴォルザーク:チェロ協奏曲、他CD70 ベートーヴェン:『ウェリントンの勝利』、行進曲集CD71 ベートーヴェン:序曲集CD72 ベートーヴェン:序曲集CD73 ヨハン・シュトラウス兄弟ワルツ名曲集CD74 スッペ:序曲集CD75 バルトーク:弦楽とチェレスタのための音楽、ストラヴィンスキー:『アポロン』CD76 弦楽合奏編曲集CD77 オネゲル:交響曲集CD78 『アダージョ』CD79 ストラヴィンスキー:管弦楽協奏曲集CD80 ベートーヴェン:『エグモント』CD81 R.シュトラウス:協奏曲集CD82 J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲集CD1 R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』
CD2 ブラームス、ドヴォルザーク:舞曲集

1. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
2. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
3. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第17番
4. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第3番
5. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
6. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第20番
7. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第19番
8. ヨハネス・ブラームス:ハンガリー舞曲第18番
9. アントニン・ドヴォルザーク:スラヴ舞曲作品46第1番
10. アントニン・ドヴォルザーク:スラヴ舞曲作品72第2番
11. アントニン・ドヴォルザーク:スラヴ舞曲作品46第3番
12. アントニン・ドヴォルザーク:スラヴ舞曲作品72第8番
13. アントニン・ドヴォルザーク:スラヴ舞曲作品46第7番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
1-13. 1959年9月4日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
豪華絢爛アンコールピースの応酬 ハンガリー舞曲は、かつてアンコールピースとしてよく演奏された曲だが、今ではガラ系の演奏会で見たり見なかったりする程度である。ブラームスの出世は、『ドイツ・レクイエム』の成功で大きな転換点を迎えたが、それまではハンガリー舞曲のブラームスとして活動していたほどだった。コンサートホールでは、振るわなくなったが、これは活躍の場をテレビのクラシック風BGMに移したと言うべきだろう。ハンガリー舞曲第5番という名前を知らなくとも、その第一主題はぼくらの耳に残っている。
とはいえ、ハンガリー風の民謡をもとにした舞曲集は、無論フランツ・リストのハンガリー狂詩曲集的な意味での民謡であるから、
バルトークの敵視する都会が言うところの田舎風趣味に迎合するものである。彼は、通俗的に流布するハンガリー舞曲の第5番の旋律を巷で聴きつければ、はらわたが煮えくり返る思いをしたのかもしれない。ドヴォルザークのスラヴ舞曲も似たような境遇にある。
そんな中で、ノスタルジーの方面で本気で愛好している節のあった、ジョージ・セルと言う指揮者もいる。普段は、ストイックで怜悧な味のする音楽をやるので、非常に目立つのである。妥協を知らない芸術家の例の通り、彼も衝突ばかりしていた人だから、バルトークが何と言おうと、忘れられない感動をスラヴ舞曲集に見ていたに違いない。繰り返すが、これら楽曲は、耳に残るのである。結局彼は、全集を二度製作した。
近年では、
アバドがハンガリー舞曲の全集のアルバムを制作している。彼はムソルグスキーやロッシーニのルネサンスをやっていたと記憶しているが、このルネサンスの一環として企画製作したのかもしれない。
古典音楽の演奏は、例外なく過去の作品の今日的意義を問うという前提の上に成り立っているが、現代の聴衆に問うその動機は、時代や人によってもさまざまである。アバドの言い分を、私が勝手に解釈して書いてみよう、「現代の偏見は、流行していた当時の実績を無視することで成り立っている。労働に疲れ果てた人々は、休日の公園で茶を飲み憩い、野外演奏会でハンガリー舞曲の5番を聴き、世の憂いを一時忘れ、明日への英気を養っていたのである」云々。
カラヤンにセルの郷愁があるはずもなく、アバド的再検討事業を思いつくには、初演からの時間の開きが狭すぎる。伝統的アンコールピース集として、このアルバムが製作されたのは1959年。もちろん関係者一同バルトークの苦言を知らないわけではない。その一方で、これら楽曲集の人気を放置しておくのはもったいない。人気先行での選曲は、別におかしなところは何もない。アンコールピースに採用した
チェリビダッケ(シュトラウス兄弟のピツィカート・ポルカと並べて披露している)だってここの住人である。
さて、カラヤンの舞曲集は、人気のアンコールピースと言う見方のもとにつくられている。追求したのは、オーケストラの機能性の誇示だろうか。もともと、楽譜からしてシンバルやトライアングル、ティンパニーが活躍する派手なもので、カラヤン流の力押しは聴いていて本当に疲れる。しかも、もともと濃厚な旋律にたっぷりと糖蜜をかけてくるのだから、胸やけがするようだ。そういうものを少しでも減退させているのが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の機能性だろう。たとえテンポが変わったとしても一糸乱れぬリズムの正確な打点、弦の躍動、そして、統御された旋律の長短が、むき出しの甘さの世界を、一定の形を与えて料理へと変える手際の良さがある。
それでも、目の前に繰り広げられている音楽は、栄養のことなど一切考えない甘味とアクセントとしてのコーヒーが添えられるというテーブルを連想さす(たまに無性に手を出したくなる点までそっくりである)。冒頭の第5番など非常に調子が良い、3曲目まではなかなか楽しい、5曲聴けば腹いっぱい、残り8曲はどうしましょうかと、買い過ぎたケーキ(賞味期限などない)に途方に暮れる思い出がよみがえるようである。さいわいな事に、音楽データに賞味期限はない。
かつてカラヤンは、ティーレマンに「クオリティを保て」と語ったらしい。駆け出しのころのカラヤンは、経営上の問題に悩まされた。聴衆は、ベートーヴェンが好きな層だけで成り立っているわけではない。即売り上げに直結するレパートリーしか選べなかった。そういう中で抜きんでるには、目に見えるまでクオリティを上げ、上げたところで保つ必要がある。見ている人は見ているものだから。
ハンガリー舞曲やスラヴ舞曲の代表的な名演として、興味のある方は手にとるべきものと言えよう。人気のアルバムらしく、
Originalsシリーズから再発されている。
★★★★
CD3 リスト管弦楽曲集

1. リスト:交響詩『マゼッパ』
2. リスト:ハンガリー狂詩曲第5番
3. リスト:ピアノと管弦楽のためのハンガリー幻想曲
4. リスト:ハンガリー狂詩曲第4番
・ピアノ:シューラ・チェルカスキー(3)
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
CD4 バレエ音楽集

・ドリーブ:「コッペリア」組曲
・ショパン(ダグラス編曲):バレエ音楽「レ・シルフィード」
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1961年4月25-28日、ベルリン、イエスキリスト教会でのセッションステレオ録音。
現代からみると変わった選曲であるようにおもえるが、どうだろうか。
カラヤンのバレエ組曲の録音 カラヤンのバレエ、バレエ組曲の録音は、チャイコフスキーの3大バレエのものがあまりにも有名であろう。完成度もそれに見合ったものである。それ以外だと、ジゼルやダフニスとクロエの組曲、それと、春の祭典くらいだったと思う。春の祭典はともかく、それ以外の演奏する上でのアプローチは似たようなもので、とにかく豪華に、それでいてべたつかせずに、管弦楽の威力を発揮させることを忘れずに、といったところである。
コッペリアでは、ワーグナーの楽劇で見つけられそうな力の凝集が見受けられたりする。こういう処理を見ると、「カラヤンはこういった曲でも容赦しないのだな」とおもう。
ショパンの管弦楽編曲 カラヤン以外ではおそらくだれも録音していない、もしくは、レコードとして販売されていても完全に忘れられている曲集であると思う。ハンガリー狂詩曲の管弦楽版を取り上げたり、当該曲を録音してみたりと、カラヤンの好みはよくわからない部分がある。
さてこの曲は、例えばワルツの7番を下敷きにしたであろうものは、チェロのソロが冒頭に追加されていて、なかなか凝ってはいるのだが、やはり、ショパンの原曲にみられる、ある種の加速感が薄れているように思える。流石に華やかさはこちらの方が数段上であるのだが。
演奏手法はコッペリアと同じ。
演奏会で取り上げられる回数は少ないけれども、カラヤンに救われましたな。例の未完成交響曲のアルバムより楽しめた。
★★★★
CD5 モーツァルト:レクイエム

・ソプラノ:ビルマ・リップ
・アルト:ヒルデ・レッセル=マイダン
・テノール:アントン・デルモータ
・バス:ヴァルター・ベリー
・オルガン:ヴォルフガング・マイヤー
・ウィーン楽友協会合唱団
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
カラヤンは、ベートーヴェンの交響曲やブラームスの交響曲と同様、モーツァルトのレクイエムを10年おきに録音している。これはその第一回目にあたる。後の録音と比べて人気があるようで、
オリジナルシリーズにも採用された。ベートーヴェン交響曲全集
カラヤンのベートーヴェン交響曲全集収録はこれで二度目。代表的な全集は以下の通りである。
| オーケストラ | 録音年 | 備考 |
---|
1 | フィルハーモニア管弦楽団 | 1951-1955 | EMI |
2 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1961-1963 | 当セット所収 |
3 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1970-1977 | カラヤンの70年代所収 |
4 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1977 | 東京公演 |
5 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1981 | カラヤンの80年代所収 |
この60年代全集は、昨今の
ハイレゾ(ブルーレイ・オーディオ等)及び
LP化需要を受けて、リマスターを施され、様々な媒体で再発されている。
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CD6 ベートーヴェン:交響曲第1,2番

1. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:交響曲第1番
2. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:交響曲第2番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
1. 1961年12月27-28日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
2. 1961年12月30日,1962年1月22日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
ベートーヴェンの1,2番交響曲とハイドンの交響曲との類似は、きっと、当時の音楽の常識から、その裏をかいて客を驚かしていたという試みにあるのではなのではないかと思っている。200年前の音楽ファンだって、現代の僕らと同様に、第一主題とか展開部という言葉を知らなくても、そういう風に音楽が進んでいくことは体で覚えていたい違いないのである。この話は確かに、ハイドン大好きの
ラトルの受け売りだが、こう言う話を聴いた後にハイドンを聴くと、何でもなかったところがちょっと違って見えるから面白い。ウィットとも言えないし、いたずらとも言えないし、むき出しの個性を投げつける図々しさもない、ただ、裏表のない面白さ、そういうものがハイドンの交響曲にはある。振り返って、ベートーヴェンのハイドン的面白さは、師のハイドンに及ぶものではないが、ベートーヴェンに欠けていた師の卓越した常識把握の力に代わって、若々しい勢いが備わっている。
若々しい勢い。カラヤンは、こういうところを本当によくとらえている。ベートーヴェンと言えば、短調の楽曲ばかり話題になるが、それを感じとるために、この名演を試してみたはいかがだろうか。カラヤンのような健康的な音楽をやる人が、ベートーヴェンの長調楽曲を料理すると、特にアレグロ楽章などは体操選手がからだ全体をめいっぱい使った演舞みたいな表現が出てきて気持ちいい。病苦と聴衆の無理解に苦しんだベートーヴェン像がしばらく見えなくなるほどだ。
前回の全集とは、もう根本的に違うという感のある仕上がりだが、やはり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるところが大きいのだろう。ヴァイオリンは輝くよう、木簡群はとろけるようである。実現される音量幅の大きさと安定感は、長調楽曲のアレグロ楽章で健康的な力強さを助長するのはもちろんのこと、緩徐楽章に現れる天気の良い日を結晶化したみたいな朗らかな歌の数々も、安定した和音の中で気持ちよく安らぐように揺れている。
ベートーヴェンという反抗の宿命を負った楽聖と言うイメージとは離れるのかもしれないが、彼もそれなりに人生を楽しんでいたということを改めて示したと言う顔も持合せているのがこの全集の特徴の一つと言えよう。1,2番はその代表的な一片だ。聴いた後の気分は実に爽快である。
★★★★
CD7 ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」

・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1962年11月10-15日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
カラヤンは、ベートーヴェンを指揮するに当たっては、特有の甘美でオペラ的な歌い回しを、わざとかどうかは知らないが排している。これは第九も例外ではないので、興味深いのだが、こと3番に至っては、その限りではない。これもまた興味深い。(つづく)
CD8 ベートーヴェン:交響曲第4番

・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1962年3月14日、11月9日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
かなりの期間をまたいでの録音。
CD9 ベートーヴェン:交響曲第5番

・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1962年3月9-12日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
CD10 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」

・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1962年2月13-15日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
カラヤン流郊外散策 カラヤンのベートーヴェン交響曲の中で最も酷にかたられる録音である。「スポーツカーで田舎をかっ飛ばす」といった趣旨だったと思う。Wikipediaによると、R.シュトラウスは、ドン・ファンの初演後、「半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。」という事態を見て、「シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」」と語ったらしい。
カラヤンの一楽章は、よく言われるようにテンポが速い。しかしながら、カラヤンのこの楽章の特徴的な点は、それよりも推進力にあると思う。この現象はカラヤンのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのモーツァルト交響曲40番や、60年代のアイネ・クライネ・ナハトムジークでも見受けられる現象である。田園交響曲では、カラヤンは例の執拗な繰り返しの部分で、徐々に音量を上げていくかどうか、それ以上になにか仕掛けを施し、聴き手はその推進力によって煽られるのである。(つづく)
★★★★
CD11 ベートーヴェン:交響曲第7番

・ベートーヴェン:交響曲第7番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1962年3月13,14日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
四楽章の冒頭の処理は、カラヤン以外では見たことがない。最初の合奏の後に、装飾音のように、すぐにティンパニーが続き、それがまた細かいというもので、これは気をつけていなくても耳に付く。冒頭の形と言えばよいのだろうか、これはくどいほど繰り返し、覚えてしまうほどに登場してくるもので、出てきては音楽を引き締める。これは、数あるベートーヴェンの作曲語法でもおなじみといってもいいようなもので、たいていの演奏家は、意義はともかく、リズムの形はそろえて提出するものかと思われる。しかしながら、カラヤンの冒頭の場合は、そうではなくて、次に現れる冒頭と同じ形の部分では、比較的一般的な最初の合奏とティンパニーの間があるとともに、ティンパニーの音もそれほど細かくない。推測するに、序奏という位置づけなのだろう。
このように一瞬にして始まるわけだが、(つづく)
CD12 ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」

・ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」(第1楽章から第3楽章まで)
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
CD13 ベートーヴェン:交響曲第8,9番「合唱」

・ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」(第4楽章のみ)
・ベートーヴェン:交響曲第8番
・ソプラノ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
・アルト:ヒルデ・レッセル=マイダン
・テノール:ヴァルデマール・クメント
・バス:ヴァルター・ベリー
・ウィーン楽友合唱団
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1962年1月23日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。(8番)
カラヤンの力の発散とベートーヴェンの天井知らずの生命力が見事に一致した決定的名演 このベートーヴェン交響曲全集の中では一番のお気に入りであると同時に、8番の決定的な演奏である。この演奏の魅力を簡単に言えば、体を動かした後のそう快感を味わえるということであろう。カラヤンのベートーヴェン交響曲は、管弦楽にそれが内包する熱気とか活力とか、そういったものを発散させる機会としてとらえているきらいがあって、8番においてはその方針が見事にはまっている。例えば、一楽章の展開部(一楽章の展開部!)、4楽章の執拗に繰り返される強拍を伴った動機は、迫力よりも、音量を絞りださんとする強い意思を感じ、それに気圧されるのだ。まるで管弦楽の限界に挑戦しているかのような、というのは言い過ぎではない。いうまでもなく、これは”そういう表現”である。甘美なフレーズの甘さも、さわやかな熱さをたたえたこの曲の雰囲気を汚さない程度に収まっている理想的なものである。
後年、同じ組み合わせでのこの曲の演奏は徐々にスピードが上がっていくのはそういう意志が演奏面に影響が及んだ結果であろうか? ただ、私が好きなスピード感はこのころのみである。後年のものは、私にとっては、早すぎる。
それにしても、この曲の1楽章の展開部の素晴らしさといったら、どうやって表したらよいものだろうか? 作曲者がこの曲を気に入っていたという言がWikipediaにあったが、うなずける話である。
CD14 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲1番
・ピアノ:スビャトスラフ・リヒテル
・ウィーン交響楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
チャイコフスキー、ピアノ協奏曲1番の録音は多いけれども、これはその代表的な一枚と見なされている。カラヤンにしては珍しく、オーケストラがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ではなく、ウィーン交響楽団である。
オリジナルス・シリーズから復刻盤が出ている。
スタンダードではないが、奇怪なものでもない この演奏は、もう一つの代表的な録音であろう、
ホロヴィッツ盤(モノラル)と対極をなす演奏ではなかろうか。冒頭からしてそうで、カラヤンの濃厚な歌い回しと、リヒテルのピアノをスクラップにせんとばかりの打鍵を期待したのだが、空振り。しっかりと、しっとりと歌う。その後も、展開こそあるものの、他と比較して非常に内面に耽溺するようなよわよわしい音楽をつくっていく。たしかに、そのように聴き取れるので、表現としては成功しているのであろう。おそらく、この大向かいをうならす曲を玄人向けに洗いなおしたのであろう。なるほど見通しは良くなった。一楽章の冒頭、いわゆる「ロシアの大平原」と称される旋律が禁欲的(?)である点も納得がいく。独立したものとして、これ以降と切り離して演奏されがち、例えば、先のホロヴィッツ盤では「一方そのころ…」という形で序曲から移行していくような作りとなっているのだが、このリヒテル盤では全体の一部としたといえよう。ただ、無理やりこじんまりさせた感もなくはない。
音楽づくりでほかと比べて大きく特異な点は一楽章までである。2楽章3楽章とだんだんと熱を帯びてゆき、特に3楽章はきらびやかな管弦楽と、打楽器的なタッチで重音が高速で飛びまわるピアノが堪能できる豪壮華美のお手本とも言うべきものである。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の特徴的な弦の音こそないものの、カラヤンはどこで振ってもカラヤンの音を出せるのかと思わせられる。俯瞰してみると、暗から明への筋道をつくってみたかったのかなと思った。
★★★★
CD15 ストラヴィンスキー:春の祭典
・ストラヴィンスキー:春の祭典
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
CD16 チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
CD17 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
CD18 ドビュッシー、ラヴェル管弦楽曲集
>ブラームス交響曲全集
ブラームスの第一交響曲は、カラヤンが客演先で披露する楽曲の筆頭、いわば名刺代わりであった。
カラヤンのブラームス交響曲全集録音(DG所収)一覧 | オーケストラ | 録音時期 | 備考 |
---|
1 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1964 | 当セット所収 |
2 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1978 | カラヤンの70年代所収 |
3 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 | 1987-1989 | カラヤンの80年代所収 |
ブラームス - カラヤンにとっての汲みつくせない問題 私は指揮者でもなければコンサートマスターでもないので体感している話ではなく本の受け売りのだが、ブラームスの管弦楽曲の音の調整は比較的難しいことらしい。誰の本かと言えば
吉田秀和氏のもの
。具体的には、ハイドンの主題による変奏曲をさして「指揮者の力量を図るのと同じように、管弦楽団の力を知る上にも、この曲は最適の作品となっている。」としているものや、ブラームスのオーケストラ曲の響き「は室内楽と管弦楽の混ざりあったようなもので、同じ時代に行きながらも、ブラームスはヴァーグナーとちがって、金管の使い方などが古風で、それだけに、木管が非常に重視されていた。それは誰しも知っている。だが、その木管の音色が、ブラームスではずいぶん地味な、艶消しをしたようなものであることには、必ずしも誰も気が付いているわけではない。」と書き、中央ヨーロッパの管弦楽団の音色に実際にあたるべきと言ったような微妙な問題に至るものもある。前者のような手元の問題も、後者のようないわゆる伝統に関する問題も、いずれにしてもブラームスの音の絶対性が微妙な位置にあるとはっきり感じるところに端を発しているように感じる。思えば単純に聴く方からしても、どちらかというと響きに過剰に敏感だった
チェリビダッケのもの、特に4番
が飛びぬけてうまいことや、ティーレマンにしても
ベートーヴェン
より
ブラームス
という感はある(もっとも、ティーレマンはワーグナーにしてもブラームスにしてもベートーヴェンの管弦楽法から大きく離れることはしなかったと
言っている
が)のはその証左と言えるのかも知れない。
懐の深いひなびた音色は、難渋な憤怒と隣り合わせになっている音響の一方で、ブラームスの音楽はまた、その旋律も魅力である。
ドヴォルザークのくずかごを漁れば交響曲が一つ出来上がると言ったり、ヨハン・シュトラウス二世の美しく青きドナウを称賛したりする、ハンガリー舞曲集を作るなど、ブラームスにはごく一般的な意味でのメロディー愛好家的な側面があったらしい。そういうところは交響曲をざっと眺めてみるだけでわかることであり、交響曲の1番四楽章、ヴィオラが入るところなど、特にこのカラヤンのものでは最も印象的な場面の一つであろう。
こういう風に書いていくと、20世紀有数の音響家であり、旋律家であったカラヤンにはうってつけの作曲家であるのだが、案外にその出来栄えは不安定である。例によって十年後とこに録音をしているが、安定しない。どこかのインタビューでカラヤンは楽譜を見るたびに新しい発見があると言っていたが、これは別に勉強家であるところを見せつめようとして言っていたのではなく、本当にそう感じていたのではないかと思う。
カラヤンのブラームスは、大きくわければ響きのバランスを統御しつくすことに注力した50年代60年代のものと、いわゆる「うねり」を再確認する
70年代
以降に分けられる。どちらが正しいのか、これはやってみないとわかるものではないと実際にやってみたのだろう。もしかしたら、
フルトヴェングラーの即興的荒れ狂い
がブラームスの目指していたところなのかもしれない、だからそのフルトヴェングラーの設計図である楽曲の構成に従ったうねりによる音楽構成も採用して見る価値があるのではないか? 実際そこまではやらなかったにしろ、カラヤン的なあまりにカラヤン的な仕上げが施されつくされている
50年代
(4番はカラヤンのブラームスの中で最高の出来であるように思う)、60年代のブラームスと比べると、それ以降のものは楽々と旋律が呼吸しているように感じられるのである。その一方で音響はむやみに膨らみ続けた。どうも、あの音ふくらみがブラームスには不可欠の要素であるということは生涯信じ続けていたことは確からしいのだが、それでも定まらなかったのはやはり、カラヤンにとってブラームスは汲みつくせない問題とうつっていたからではあるまいか。
カラヤンの60年代のブラームス交響曲全集は、ブラームスの音楽とは何かという問いの答えを見ることができる玄関口にあたるわけである。フィルハーモニア時代から、ブラームスの音響の形を実現しようとしているところは垣間見えていて、それはほとんど出来上がってすらいた(
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのもの
は、ベートーヴェンの交響曲7番のこともあって、例外と見た方が妥当のように感じる)。あの高貴で瑞々しいブラームス。フィルハーモニア管弦楽団と、録音設備がとらえた音響であろうが、やはり魅力的であることに変わりない。あのひなびた部分をここまで透明で、それでいて元の味わいを消すことなく提出してみせたカラヤンの手腕を私は称賛したい。
おそらく、あの手法をそのままベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でやった。ここはやはりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、フルトヴェングラーの薫陶を受けた暗い霧と強い高弦が織りなす不安な濃厚な、かおりが充満する世界である。重心が一段階下がっている感じ。最も成功しているのは一番。この一番は、数多くあるカラヤンのブラームスの一番の中で最も精巧に制御されているものでもある。横の隙無く、滞りなく。
CD19 ブラームス:交響曲第1番

・ブラームス:交響曲1番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
CD20 ブラームス:交響曲第2番

・ブラームス:交響曲2番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
CD21 ブラームス:交響曲第3番、ハイドン変奏曲

・ブラームス:交響曲3番
・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
CD22 ブラームス:交響曲第4番

・ブラームス:交響曲4番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
CD23 ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
・ヴァイオリン:クリスティアン・フェラス
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・ベルリン、イエス・キリスト教会でセッションステレオ録音。
カラヤンは60年代のすべてのヴァイオリン協奏曲を、フェラスとともに録音している。こういうこだわりがあると、カラヤンの好みが最優先されているような気がしないでもなくて、ワイセンベルクや、このフェラスはまさにそのような雰囲気があると思う。いや、一番の有名な録音がカラヤンとの共演盤であるというだけの話で、両者とも実力の程はなかなかにあるわけだが。だからこそ、カラヤンは共演者に選んだのだ。
例によって、注目はカラヤンの伴奏に目が行きがちになる。ブラームスのヴァイオリン協奏曲の録音は結構あるけれども、これほどに管弦楽が分厚く鳴り響くブラームスのヴァイオリン協奏曲はもう二度と現れないのではあるまいか?
実はブラームスのヴァイオリン協奏曲の存在を意識しだしたのは、ティーレマンが伴奏を担当しているバティアシヴィリ盤からで、発売前にオイストラフ盤や当演奏等を聴いて予習したりしていたのである。ヴァイオリンソロの冒頭の処理の差にはかなり驚かされた。バティアシヴィリ盤の後では、この2者は、言葉は悪いがどん臭い。これは技術の進歩が達成したものであろうかと思われる。2者とも結構苦しそうに弾いていたりするのだ。この話題はこの辺にしておいて、フェラスの演奏の方にうつる。
たっぷりとしたブラームスのヴァイオリン協奏曲 たっぷりとして聞こえるのは、カラヤンの伴奏の分厚さだけではない。顕著にその傾向が表れるのは、三楽章で、第一主題のレガートは上で挙げた三者の中で一番多い。リズム強調を少なからず行っている演奏が多い中で、これを聴くとやたら図体が大きく聴こえる。1楽章では、柔らかい歌としてこの特徴は捉えられる。
★★★★
CD24 ブラームス:ドイツ・レクイエム
CD25 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

・シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
・シベリウス:交響詩「フィンランディア」
・ヴァイオリン:クリスティアン・フェラス
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
カラヤンのシベリウスへの傾注は異常で、質の高さは60年代の交響曲の中では最も高いのではなかろうかと思うほどである。特に交響曲七番である。反射的に「この交響曲の決定的な演奏」と反射的に評してしまいそうになる出来栄えである。大いなる始まりを予感する、または、新時代の夜明けを思わせるクライマックスをはじめ、それに至るまでの構成感、フレージングに至ってはこれ以上を望むべくもない仕上がりである。そういったものを聴いていると、自然に同作曲家の作品に期待が高まるというものである。
力強いヒロイックなフェラスと、巨大な書割としてのカラヤン 一楽章、遠くを見るというよりは、その場で歌うという始まりである。胴を響かせるはっきりとした歌である。フェラスの歌は、明らかに歌ってのだが、荒削りな部分があって、それが熱くさせるものをもっているようだ。最後はやや味気なく終わるが、それ以外はなかなかの仕上がりである。
二楽章、カラヤンのオーケストラが雄弁である。ソリストより雄弁である。だが、その中でのフェラスの役割は、オペラ楽劇での歌手が管弦楽の中で果たす役割に近い。場を広げ、その中で、ソリストを活躍させるということである。カラヤンの雄弁さは、やや具体性を欠くように設計されているのだ。だから雄弁であっても漠然としていて、ソリストが目立つという仕組みになっている。
三楽章は、颯爽と流れていくバティアシヴィリのものとは全く違う、しっかりと刻みつけていく、堂々とした仕上がりである。テンポは遅めで、リズムは跳ねるというよりは踏みしめるといった具合である。美しさよりも、迫力を前に出した演奏であるかと思う。遅いテンポながら、熱気がにじみ出る。チャイコフスキーで急にとってつけたようにギアを変えるということもない。
カラヤンとの一連の協奏曲の仕事の中で、最もフェラスが世にたたきつけた仕事ではあるまいか。
フィンランディアは、このページのシベリウス管弦楽曲集の方に回すことにしたので、そちらを見ていただきたい。
星の数は4.5の四捨五入。
★★★★★
CD26 ベルリオーズ:幻想交響曲
CD27 シベリウス:交響曲第5番、『タピオラ』
CD28 シベリウス:交響曲第4番、『トゥオネらの白鳥
CD29 J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集(1-3)
1. ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番
2. ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第2番
3. ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
1-3. 1964年8月17-24日、セント・モーリッツ、ヴィクトリアコンサートザールでのセッションステレオ録音。
セント・モーリッツでの恒例行事CD30 J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集(4-6)

1. ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第4番
2. ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番
3. ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第6番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
1. 1964年8月17-24日、セント・モーリッツ、ヴィクトリアコンサートザールでのセッションステレオ録音。
2. 1964年8月17-24日、セント・モーリッツ、ヴィクトリアコンサートザールでのセッションステレオ録音。
3. 1965年2月22日、セント・モーリッツ、ヴィクトリアコンサートザールでのセッションステレオ録音。
カラヤンのバッハ演奏 - 時代と個性 批評文におけるカラヤンのバッハ演奏が、無傷で終わることはほとんどない。『マタイ受難曲』などは、
失笑ものと言う書き方までされている。指揮者の存命時代から続く伝統みたいなものだ。これで紙幅を稼ぐのである。周知の通り、バッハ存命時代の音楽環境についての研究が進み、いわゆる古楽器によるピリオド奏法以外の演奏は、すべてバッハの意図からほど遠いものと大きく分類された。カラヤンのバッハ演奏の世評は、自動的に良い演奏とされている一群からまた一回り距離をとることとなったわけである。もちろん、ブランデンブルク協奏曲とて例外ではない。
かつて
名盤として君臨していたリヒターすら旧時代の産物とされている現在では、カラヤンの演奏はゲテモノ扱いしても異議を唱えられる環境ではなくなった。とはいえ、「エレキギターで平均率」よりはバッハの意図に近く、楽器云々にしても、当時の常識的範囲に収まっているわけである。時代を代表する演奏として、個性的な味のある演奏として、また、大指揮者カラヤン個人の業績の一部として、これからも生き続けていくことだろうかと思われる。
カラヤンのバロック好きは、レパートリーから察せられるが、興味は純粋に音楽的なものだったようだ。やっていることと言えば、弦楽群の重く分厚い和声が広げられたドイツ式のソステヌートの世界で、カラヤン氏一流のレガートを響かせ、その脇でチェンバロがサン、サン、と時を刻む。極端に言えば、オペラ間奏曲を扱うようなものである。カラヤンは、オーケストラを駆使して、聴く者の心を一刺しにするようなバロックの旋律をたっぷりと歌いたい。
バロックという古い時代について、その演奏上の慣行から、精神的風土についてまで研究している人からすれば、何を勘違いしているのかと言う演奏かもしれないし、ほとんど知らない私からしても、本来はこう言うものではないだろうという感じはする。しかし、
ベルリン古学アカデミーによる優れた演奏や、
リヒターの名盤を聴いた後に、カラヤンを聴くと、すごく落ち着いた気分になる事は告白しておかなければならない。今あげた三者の中では、最もテンポを遅く取っているために、そう聞こえるのだろうが、このテンポ設定によって、バッハの対位法によって束ねられている延々と続く旋律が、何となくくつろいで聴こえるからかもしれない。最大の聴きものは、第6番の第一楽章だろう。やまびこみたいに輪唱が続く楽曲だが、よく響くカラヤンのやり方だと、反響の中にいるみたいである。もともとこれを意図して書かれたかのようでおもしろい。
★★★★
CD31 J.S.バッハ:管弦楽組曲第2,3番

・バッハ:管弦楽組曲2番BWV1067
・バッハ:管弦楽組曲3番BWV1068
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
管弦楽組曲2番 カラヤン公式ホームページというものがあって、そこには演奏会の記録があったり、録音記録があったり、その演奏会評の切り抜きまであったりする。そういうものは、ただ眺めているだけでも楽しいものであるが、例えば、ベートーヴェンの交響曲をさかのぼってみたり、ブルックナーの交響曲をさかのぼってみたりするとそれらを初めて取り上げた演奏会全体のプログラムを見ることができる。それで、よく見かけるのである、バッハの管弦楽組曲2番を。
これは多いに違いないと思って、この曲で全演奏会の記録を絞ってみるた。すると、1555回もの演奏会において、この曲を取り上げていたということになっていた。これは、カラヤンが演奏会や歌劇場ででベートーヴェンの楽曲を取り上げた回数の約2倍にあたる数字で、カラヤンが催した演奏会の回数は3198回であるらしいから、その49.6%つまり、約半数において取り上げていたということになる。バッハの管弦楽曲2番は、カラヤンの愛奏曲である。(つづく)
管弦楽組曲3番 一方で、3番は演奏会で取り上げられた形跡がない。
CD32 シューベルト:未完成交響曲、ベートーヴェン序曲集

・シューベルト:交響曲8番「未完成」
・ベートーヴェン:フィデリオ序曲
・ベートーヴェン:レオノーレ序曲3番
・ベートーヴェン:コリオラン序曲
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1964年10月27日、ベルリン、イエスキリスト教会でのセッションステレオ録音。(シューベルト)
・1965年9月21,22日、ベルリン、イエスキリスト教会でのセッションステレオ録音。(ベートーヴェン)
シューベルトの未完成交響曲と、ベートーヴェンの序曲をセットにしたアルバム。
不慣れ故の慎重さがたたったか カラヤンのシューベルトの交響曲は、全集を残しているEMIのものの方が有名であろうか。DGには、60年代ではこの未完成交響曲と、9番を残している。
さて、これの出来栄えの方は、カラヤンにしては少々堀が浅いように感じなくもない。木管がソロで登場する場面のバックの管弦楽、その後の多声部のからみは、全ての楽器を大きく歌わせているので、カラヤンを聴いている気分になるが、全体的には慎重である。
この傾向は、チャイコフスキーの悲愴交響曲にも若干あらわれていたので、リハーサル不足の不慣れを想像させられる。こういう表現かしら? いまのところ、ベートーヴェンや、ブラームスの初録音に比べると明らかに雄弁さに欠けると言わざるを得ない。
これもカラヤン。ベートーヴェン序曲集 フィデリオ序曲は、ひどく遅く感じたので、よく聴くヨッフムのものとタイムを比べてみると30秒も違った。遅く感じるわけである。例によって音が分厚いことと相まって、ティンパニーのシンコペーションが前に出てくるので、ひどくゆったりとした印象を受けることも、ひどく遅く感じた原因だろう。重厚と言うより若干だらしないといった雰囲気である。
ただ、コーダは快速でしめる。まぁ、悪くない出来だが、カラヤンならもっと質を上げられたと思う。
レオノーレ3番は、フィデリオ序曲と同じ印象。
コリオラン序曲は、なかなかの出来栄えである。付属のブックレットによると、序曲3曲で、2日(未完成交響曲は1日)使ったようだが、おそらく、(これは完全な妄想だが…)コリオランでこだわりすぎて、上二つの序曲に時間が回らなかったのではないかと思う。
演奏時間は9分! ベームは8分30秒。遅い。しかしながら、だらだらと音を垂れ流していくような演奏にも関わらず、緊張感がすんでのところで持続している。フレーズ処理や細部、クレシェンドの手入れ具合も上二つに比べると多いように感じる。
最後の3音の間は特筆ものである。
コリオランがなかったら星2つだっただろう。
★★★
CD33 モーツァルト:交響曲第29,33番

・モーツァルト:交響曲29番
・モーツァルト:交響曲33番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1965年、セッションステレオ録音。
単品では、
70年代の後期交響曲とセットのものが一番手に入りやすい。
モーツァルトを聴く喜びのひとつ 結構大きく出た見出しなのだが、最初に置くつもりだったものはもっと過激で、「モーツァルトを聴く喜びを最大限に具象化した傑作」というものだった。かなり甘美で緩徐な音楽で、カラヤンのアプローチもそうなのだが、殊に29番の冒頭、後ろでそれを柔らかく包むように登ってくる弦の音と、主題が徐々に混ざる様を聴いて、私はほとんど取りみだしまったのである。こういう経験はしたことが無かった。しかし私は立ち止まる。モーツァルトを聴くと言うことに私がこれまで見出してきたものもの、例えば、アバドのセレナーデにおける質感や、カラヤンのジュピター交響曲で見出した美点を早々容易に捨て去って、この感覚のみを最上のものと見なして筆を進めると言うのは、少々やり過ぎの感があったからである。
極めて個人的な御託はともかく、ロココな甘さをたたえた演奏という点ではこれ以上ないものではなかろうか。カラヤン的爽快感も備えていることは言うまでもない。
カラヤンの33番 33番は、まったく集めるつもりがないのに増えていった楽曲で、クライバーが好んで取り上げていたり、ヨッフムが来日公演で取り上げていたりしたこともその要因の一つである。激戦地だったりするのだろうか。
一番個性的なのはヨッフムで、二楽章の最後で、楽節を感じさせないような歌い回しと音の鳴らし方で閉めている。この部分が妙に耳に張り付いている。本当にこの人は何をするかわからない。
クライバーのものは、やはり躍動感という点ではずば抜けていて、フレーズがどこかに飛んで行きそうになることがしばしばである。
カラヤンは、上でも書いたようなロココな甘さを基調としつつ、管弦楽の威力の横への発散を行っているのかと思う。一般的には運動的な動きをしているのかもしれないが、クライバーを聴いた後では大人しく感じてしまう。3人の中では最もまじめな印象を受ける。
★★★★★
CD34 バルトーク:管弦楽のための協奏曲
CD35 モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク、他
CD35 モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク、ディヴェルティメントK287

・モーツァルト:セレナーデ13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
・モーツァルト:ディベルティメント15番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
劇的なアイネ・クライネ・ナハトムジーク 吉田秀和のおなじみ世界の指揮者にカラヤンのモーツァルト評をみてみると、「(作為の跡はないのだが、)あらかじめ用意された写真の像が鮮やかに浮かび上がってきたといってもよいような、そういう矛盾した感想を与える余地があったことも事実である。(吉田秀和著 世界の指揮者 筑摩書房 p.336-337)」という記述がある。これはカラヤンの50年代あたりのモーツァルトに関する評の一部である。確かに29番の素晴らしさは、その自然さにあることは間違いない。だが、吉田氏が言うところの用意された写真こと繊密な設計図は、あったのだろうけれども、見えなかった。言われてみると、確かに、よどみがなさすぎる感はある。そこも魅力なのだけれども。
だがアイネ・クライネ・ナハトムジークでは、だいぶ様相が違っていて興味深い。一楽章で顕著な傾向で、ここでは第一主題に何度か再帰するのだが、最後の回帰はまるで凱旋のような登場をする。短調に変調した後に第一主題に回帰するのだから、自然とそう聴こえるのかもしれないのだが、29番の時と比べるとかなり自己主張が激しいように感じる。肉感的とすら感じたほどである。二,三楽章はロココに徹するが、四楽章がまた興味深い。短調になる部分では丸で40番の一部を切り取ったかのような表情をつける。
セレナーデというよりも、交響曲のような劇性を感じさせる演奏である。
CD36 モーツァルト:ディベルティメントK334
CD37 R.シュトラウス:交響詩『ドン・キホーテ』
CD38 ラヴェル:『展覧会の絵』,ボレロ
CD39 ブルックナー:交響曲第9番
CD40
CD41 モーツァルト:ディベルティメント集1
CD42 ヨハン・シュトラウス父子ワルツ集
CD43
CD44 チャイコフスキー:交響曲第4番
CD45 チャイコフスキー:交響曲第5番

・チャイコフスキー:交響曲5番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
カラヤン、60年代の再録音。
チャイコフスキーの交響曲は
ムラヴィンスキーがDGに残した有名なセッション録音があれば足りると言うくらいに疎い。べつに嫌いというわけではなくて、あれば何の気になしに楽しんでしまうのだろうけれども、集めようと言う気が起きないと言うだけの話である。無論これはムラヴィンスキーの録音の出来が非常に良いということもまた理由の一つに挙げられよう。というわけで、まとまったチャイコフスキーの交響曲の聴き比べをするのはこれが初めてなのである。
演奏家の強み、作曲者ではないということ 作曲者は、言うまでもなくその作品の質を上げるために、優れた旋律を用意するのだけれども、自作自演するにあたって、とっておきの旋律を思い切り強調して演奏するということができるだろうか、と考えるとなかなか難しいように感じる。自分の考えた旋律をこれでもかという風に聴かせるのである。その点、他人が考えた旋律を歌うと言うのは、その魅力を十全に伝えるにあたって、やれることはすべてできる点で、有利と言えば有利である。
チャイコフスキーは、ピアノ協奏曲の1番やヴァイオリン協奏曲、バレエ曲のいくつかを簡単に眺めてみるだけでも、その旋律の美しさ、広く人を捉える良さが目に入ってくるもので、どうあがいてもその旋律美のようなものに目を向けなければならなくなってくる。ムラヴィンスキーは、
リヒテルとのピアノ協奏曲1番の冒頭、まるでロシアの大平原のような息の長い雄大な旋律を、その雄大さという点よりも優美さに着目した歌い回しをしていることからも察せられるように、搦め手を加えたものとなっているように感じられる。
この指揮者はどちらかと言うと、厳格な構成感といったものがその厳しい楽団の響きと鋭い音楽づくりをするのでそちらのほうばかり目が行く。だが実を言うと、これはムラヴィンスキーの厳格のリリシズムとでも言うべき美学の結果なのかもしれないのである。
このボックスの中に、タンホイザーのヴェヌスベルクの音楽がある。私にとってほとんどショッキングな出来事だったのだが、ここにおけるいつものレニングラード交響楽団の音で繰り出される官能性の高さは、他とは一線を画しているように思えるのである。つまり、チャイコフスキー他を取り上げるにあたって、色というものをある程度抑えた、その手のリリシズムを選択したと言ってもよいのではなかろうか。おそらくこれが、からめ手を使った理由の最たるものであって、ムラヴィンスキーの音楽の統一感の源泉の一つだ。「一つの曲を練り上げるにあたって一つ一つの旋律楽句は要素である」ここまでは演奏家の誰もが考えることであるが、それをどうくみ上げていくかにあたって、一つの理念、イメージが無ければ成らない。チャイコフスキーの交響曲におけるムラヴィンスキーのイメージは、詩的に峻厳なものであるように思われる。
カラヤンにとってチャイコフスキーという作曲家は比較的重要だったということは、その録音数からみても疑いのないことである。後期の交響曲は、ベートーヴェンの交響曲やブラームスの交響曲と同じく約10年ごとに録音をしなおしているし、バレエ組曲の再録音も行っているくらいである。単に人気のある作曲家だからという理由で取り上げていたわけではないかと思われる。
カラヤンと言えば、このページでも度々触れているとおり、その音とともに、その節回しという点においても非常に際立った特徴を持っている。カラヤン・アーチと呼ばれているらしい、カラヤン流の大柄な歌い回しは、スメタナのモルダウの第一主題や、ジョセフ・シュトラウスの天体の音楽で大活躍をしている。一方で、そう言った大柄な節回しを全く封印したのが、ベートーヴェン交響曲である。これらの曲の具体的な話は、それぞれの項ですることとして、私がここで言いたいのは、カラヤンが節回しを形成するにあたっては、例えば、曲の性質をいくらか吟味してから行っているという点である。もっとも、歌う、歌わせることに関して非常な手腕をもったカラヤンが、歌について何の考えを持っていなかったというのがおかしな話であるのだけれども。
チャイコフスキーにおけるカラヤンの節回しに対する接し方は、例えばオペラの見せ場における大柄なものが基本としてあるわけで、ベートーヴェンのそれとは大きく違う。これは一聴してわかることであるから別に問題でもなんでもないが、もっと聴いてみると、その大柄な節回しにしても、非常に慎重な幅の取り方と言えばよいのだろうか、存在感の示し方と言えばよいのだろうか、そう言ったことを感じるのである。ことにチャイコフスキーの旋律であるから、あんまりに存在感を大きくすると楽曲の中で浮きすぎてしまうことは、この大指揮者にとってわかりきったことであったのだが、そうはいってもこの旋律美を殺してしまうのはいかがなものか、こういう一般的苦悩が前に立ちはだかった結果であろう。これら調整の基本となったのは、やはり楽曲ということになると思う。カラヤンのチャイコフスキーは文学的である。これはドイツ指揮者のチャイコフスキーの演奏の伝統、知らず知らずの間に出来上がった慣習とも言えるようなものかもしれないもので、古くは
フルトヴェングラー
、
ベーム
は聴いたことが無いのでよくわからないが、
ティーレマンにおいてもその傾向が強いのである。いずれにせよ、構成感という点はともかくとして、構築感が現れなければどうにもならないのが、ベートーヴェンがいわゆる英雄交響曲あたりでおそらく図らず創始した音楽の文学的(物語的というくらいの意味である)側面である。その文学的側面というものは、非常に抽象的な物言いで申し訳ないが、音楽の効果上の、聴覚上の前後関連における相当因果関係の妥当性によって担保されているわけだから、ある旋律がでしゃばって出てくるとなると、たちまち失敗するという非常に綱渡りのものでもある。カラヤンの慎重な大柄な立ち回りは、おそらくここに由来する。
こういう音楽の作り方がカラヤンには見られない現象ではあるまいかという言があるかもしれないが、傑作録音であるシベリウスの交響曲7番はその延長線上にあるから、チャイコフスキーだけでもって現れた特性とも言えない。
作曲者の自作自演から大変なところまで来てしまった。肝心のカラヤンは、何を描こうとしていたか。
CD46 リムスキー=コルサコフ:『シェヘラザード』
CD47 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲

・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
・ヴァイオリン:クリスティアン・フェラス
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1967年1月25,26日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
フェラスとの有名ヴァイオリン協奏曲シリーズ。
可もなく不可もない フェラスのヴァイオリンについてだが、はっきり言って、よくわからなかった。いや、だめだと言っているわけではない。歌う部分はあまり大げさにではないが、歌うし、他の演奏家で感じるような、曲の魅力を伝えていることは間違いない。
気になるのは、音が多くなる部分では急に機械的な処理にきこえたり、こなしているというような感触になったりとどうしても感じてしまうからである。慎重な面が前に出てしまったのか?まぁ、意図なのだろうが、よくわからないというのが正直なところである。
カラヤンの伴奏はブラームスの協奏曲のような分厚さはない。同曲の分厚さ加減で言えば、
コーガン、ジルヴェストリ盤
の方が上であろう。
方針は、曲が持つ構えの大きい部分を主眼に置いた伴奏である。この曲の管弦楽は、伴奏然とした伴奏なので、そこまで派手なことはできないということもあってか、カラヤンの協奏曲での存在感の示し方からすれば、おとなしい方だと思う。
「結局どうなんですが?」ときかれたら、「悪くはない」と返答するだろう。
★★★
CD48
CD49 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
CD49 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲1番
・ピアノ:クリストフ・エッシェンバッハ
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・1966年11月30日-12月1日、ベルリン、イエスキリスト教会でのセッションステレオ録音。
慎重かつカンタービレ エッシェンバッハというピアニストを聴いたのはこれが初めてで、技術的に堅実なケンプと言った印象を受けた。ケンプと言っても、その傾向があると言うだけで、達観したいわば聖人の様な雰囲気さえ感じるまでは当然至っていはいないし、
ケンプの同曲
とは似ていない。
シューベルトの即興曲が出ているとのこと。食指が伸びるのは当然の成り行きと言えよう。
そのエッシェンバッハのベートーヴェンの協奏曲1番は、良くも悪くも堅実であると思う。ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番と言えば、私の中では
ミケランジェリ、ジュリーニ盤
が何よりもすぐれたものと考えていて、それは同曲の録音の全体からすれば「熱気にかける」という評もあるかもしれないものだが、このエッシェンバッハは、それよりも、慎重であるために、溌溂とした雰囲気は薄い。だからと言って、この演奏を切り捨てるわけにはいかない。エッシェンバッハは、いわば吟遊詩人の様な音楽を示すのである。全体的にそのような傾向だが、その傾向が如実に表れるのは、1楽章の6分40秒付近であろうか。比較的遅めのテンポをさらに少しおさえ、持ち前の柔らかい歌に集中させる。フレージングと音の肌触りの良さだけでいえばトップクラスに属する処理ではなかろうか?
カラヤンの伴奏は、朗々としたピアノと対照的にエネルギッシュなものである。対比したかったのだろうか?
★★★★
CD50 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

・チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
・チャイコフスキー:イタリア奇想曲
・ヴァイオリン:クリスティアン・フェラス
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1965年11月(協奏曲)、1966年10月(奇想曲)、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を初めて聴いた時は、ヴァルディの作品かと思ったものである。いうまでもなく、一楽章のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とならんで有名な部分を聴いての話だ。まぁ、それしか覚えていなかったわけで、つまるところ、私はこの曲のよい聴き手とは言い難い。三大ヴァイオリン協奏曲はなにかと言われたら、ベートーヴェン、シベリウス、ブラームスと答えるような人間に、このジャンルの醍醐味がわかるはずもないのである。
図体で気押すヴァイオリン それはともかく、この項はフェラスの演奏についての項である。
フェラスというヴァイオリニストは、少なくとも優れた音楽家であるが、技術がファンタジーに追いついていない。この考えというか、妄想は、フェラスの演奏を初めて聴いた時からあって、最初は、この当時の技術水準云々ということで片づけていたのだが、どうやらそうでもないらしい。多分、こういうフェラスについて書くのはこれで最後だろうから、簡単に書いておこうと思う。フェラスの発する灼熱は、技術的な困難へ立ち向かうことから発せられるか、それとも、フェラスの意図から生まれるものなのか、ということを考えながら聴いていると、技術的に問題ない(と思われる)個所で、楽器の胴を極限まで太くならそうとする姿が浮かび上がってくる。場所にもよるのだけれども、これらは単に響かせようとするだけにとどまるものではないようだ。実のところ、やろうとしていたことは、カラヤンと同じだったのかもしれぬ。
一楽章や、三楽章の速い部分では、明後日の方向え勢いを投げるがごとくかき鳴らす。猛烈な足掻きである。一楽章の有名な部分を管弦楽へ橋渡しする部分では、もはや前後のことを考えていないとすら思える。だが、何とかなってしまうから「優れた音楽家」とかいた。二楽章の抒情的な部分では、カラヤン張りの横の響きがと特徴的。
カラヤン的佳演 イタリア奇想曲は、今回が初めて。奇想的な部分は、最後の3分だったので少々面食らった。ここでカラヤンは、例の大きな管弦楽団体を上下させてリズムを切っていく。それ以外はあまり覚えていない。
★★★★
CD51,52 ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス
CD53,54 ハイドン:オラトリオ『天地創造』
CD55 チャイコフスキー:序曲『1812年』、他
CD56 チャイコフスキー:弦楽セレナード、『くるみ割り人形』組曲
CD57 オペラ序曲、間奏曲集

・ヴェルディ:椿姫より、三幕への前奏曲
・マスカーニ:カヴァレリア・ルスティカーナより、間奏曲
・レオンカヴァッロ:道化師より、間奏曲
・ムソルグスキー:ホヴァーンシチナより、間奏曲
・プッチーニ:マノン・レスコーより、間奏曲
・シュミット:ノートルダムより、間奏曲
・マスネ:タイスより、瞑想曲
・ジョルダーノ:フェドラより、間奏曲
・フランチェスコ:アドリアーナ・ルクヴルールより、間奏曲
・ヴォルフ=フェラーリ:マドンナの宝石より、間奏曲
・マスカーニ:友人フリッツより、間奏曲
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
甘美な旋律に耽溺するアルバムである。一般にカラヤン嫌いとして有名な宇野氏が、ベートーヴェンを散々貶した後に、オペラの間奏曲やロンドンでの公演をほめているおかげか否かは知らないが、このオペラ間奏曲集としては異例のロングセラーを誇っている。おそらく、オペラ間奏曲集で騒がれるのはカラヤンだけである。
内容はやはり質の高さはうかがえるものの、カラヤンの仕事の中で際立って質の高いものとは言えない。しかしながら、相性は抜群である。どこかで聴いたことがある旋律(タイスの瞑想曲等)が、大きな呼吸の歌で大柄にうたわれる、それもあの音で! いや、むしろ、弱音の繊細な表現に目を向けるべきであろう。椿姫の3幕への前奏曲に代表される弱音が主体の曲は、室内楽的な精妙な質感でもって、甘美な旋律が歌われる。実に耽美的である。
★★★★
CD58 シベリウス:交響曲第6,7番

・シベリウス:交響曲6番
・シベリウス:交響曲7番
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
カラヤン管弦楽録音の最高峰。
オリジナルスシリーズからも再発されている
。

シベリウスは冷たい? もう数年くらい前の話になるが、いつものように某大手音楽映像ソフト販売店で商品を漁っていたら、隣にいた人が、「今日は暑いからシベリウスでひんやりと行きましょうかね?」と話しかけてきた。隣にいた人が話しかけてきたというだけでも結構なことだが、年も大分離れていた人だったので、心底驚いたが、顔を見ると、愛嬌に満ちた人のよさそうな顔をしていたのと、私はクラシック音楽のことではめったに人と話す機会がないので、「ランランは映像で見るのが一番ですね」だとか、「アルゲリッチは昔すごくきれいだったよね」だとか他愛もない話をして楽しんだ。他にも話題はあったかもしれないが覚えていない。今思えば、私はとてつもない適応力を示したものである。最終的にその人の良さそうな人は「かみさんに怒られそうだけど、男だから(全集ボックスを)買っちゃう」とか言って、EMIのボックスだったかと思うが、それをもってレジに向かっていった。面白い人である。
その奇妙な感興によった会話が行われた時分、私はシベリウスに興味などさっぱり無く、どんな曲を書いているかも知らず、時折シベリウスの名前を見ても「新ウィーン楽派の1人かしら」という始末だったので、「シベリウス→ひんやり」という話はピンとくるどころか、それ以前の段階だった。だが、今思い返すと、なかなかに興味深い足掛かりではないかと思うようになってきたのである。
最後の5分間は、カラヤンの管弦楽演奏上、最も芸術的手腕が成功した例のひとつである。
シベリウスも、「暗から明」というものに取りつかれていたようだが、同じような悩みを持ったドイツの作曲家のブルックナーもまたそうだった。シベリウスがブルックナーについてどのような考えをもっていたかはしらないが、この演奏をきいた限りでは、この「暗から明」という形式において、シベリウスはブルックナーの仕事の終点から仕事を始めたといってもよいと思う。特に7番は、行くところまで行っている。傑作だと思う。
(作文中)
高弦の哀歌も憂愁まで下りて来た。すると下の方から、聴き手のしびれた感覚を豊かな楽想が受け止める。このことを感じ始めたあたりから、高弦が名残惜しそうな歌を奏で、消えて行く。ここからの和声のみの移ろいで、我々は、曙光のようなものを頭の中で見る。(つづく)
★★★★★
CD59 モーツァルト:ディベルティメント集2
CD60 ブラームス:ピアノ協奏曲第2番

・ブラームス:ピアノ協奏曲2番
・ピアノ:ゲザ・アンダ
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1967年10月18-20日、ベルリン、イエスキリスト教会でのセッションステレオ録音。
カラヤンのブラームスのピアノ協奏曲の録音は、これだけだろうか。単品では
オリジナルスシリーズからグリーグのピアノ協奏曲(指揮はクーベリック)とのカップリングで再発されている。
カラヤンのブラームス観にアンダが熱情を添える
カラヤンとアンダの組み合わせは、ザルツブルク音楽祭の記録で見ることができる。なので、急に組まれたとか、そういうわけでもないようである。そこでは、バルトークのピアノ協奏曲3番を取り上げていて、不朽の名演であるフリッチャイとのものには劣るものの、存在感を示すには十分の演奏であった。
アンダは、フリッチャイともこの曲を録音していて、いやがおうにも比較されるわけであるのだが、簡単に言えば、フリッチャイとのものは、即興性の強い力押しの演奏であるのに対し、カラヤンは、繊密な計算のもと、ブラームスのロマンを組み上げていくといった趣である。
フリッチャイ、アンダのペアは、
バルトークの協奏曲からも察せられるとおり、いわゆる乾燥した燃焼度が、その持ち味であるわけなので、ああなるのも致し方ないというものではある。とくに飛ばすということはないが、若干の手元の不備などいざ知らず突き進む様は圧巻である。計算なしに突き進んでいると言っているわけではない。
カラヤンの方は、これはカラヤンのブラームス観が作用しているのであろうが、漠然と横に広がるといった具合で、アンダは、一楽章や二楽章ではそれなりに燃焼するわけだけれども、フリッチャイのものと比べると、かなり丁寧で抒情的な仕上がりを見せる。
アンダの歌は、リヒテルの系統のもので、あれほどに強い吸引力はないが、くせのない歌である。どちらかというと、アンダは、強く弾く場面で強い個性が現れる。
毎回書いているような気がするのだけれども、この曲のピアノパートは、聴いている以上に難しい。嫌がらせとしか見えない部分もあって、永遠に触れたくない譜面である。ただ、作り出される曲想は、ゆったりと漠然としていて、豊かな事情感をもつという、結果的にピアノ協奏曲という名人芸の披露の場へのアンチテーゼとなった作品でもある。これは一聴して明らかな話であることは、多くの人に同意いただけるかと思う。だが、苦渋の発露というか、そういった場面では、ブラームスは、聴き手にも譜面上でも難渋な場面をつくる。こういう場面は、ブラームスの交響曲1番でもあったはずで、このことから、ブラームスという作曲家は、演奏会会場で難技巧に悪戦苦闘する姿(ブラームスのピアノ協奏曲は、初演の際すべて作曲者自身がピアノパートを担当したから、この場合は自身が)も計算に入れていたのではないかと思える部分もある。全てさらりと弾いてしまうのも考えようである。
最後に、カラヤンの管弦楽について書いておく。いろいろ聴いて回って、再びこれを聴くと、その管弦楽の雄弁さに驚かざるを得ない。金管、高弦どれをとっても他の演奏とは一段その存在感が違う。ただ、これはカラヤンがアンダを食っているという話ではなくて、やはりこういうところはさすがオペラの達人といったところだが、そのさじ加減は「オーケストラは、重要な役割を担う」ところで留まる。三楽章はブラームス的ロマンの極みである。それとともに、一見して派手(これはカラヤンの手癖のようなものであろう)だが、派手さを前面に出すというものでもなく、いわゆるカラヤンのブラームス観の中に収まっている。
名演である。今回の星の数は5つとだいぶ悩んだ。
★★★★
CD61
CD62
CD63 リスト:『前奏曲』、スメタナ:『我が祖国』より

・リスト:交響詩「前奏曲」
・リスト:ハンガリー狂詩曲2番
・スメタナ:交響詩「我が祖国」より、高い城、モルダウ
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・ヘルベルト・フォン・カラヤン
・


人気のある演奏らしく、
オリジナルス
シリーズから復刻されている。但し、カップリングは若干異なる。
アルバムの内容から察するに、ハンガリーものを掛け合わせたものかと思われる。民族音楽の研究でも有名なバルトークの批判が有名だが、まぁ、それは詳しい人に任せる。
カラヤンの愛奏曲? 私の興味を引くのはそちらではなくて、カラヤンの選曲にある。カラヤンの70年台の曲目が公開されて、より一層見えてくるのは、カラヤンのリストへの愛着である。大物指揮者がヨハン・シュトラウスを振ると大騒ぎになるが、リストを振ったところで対して話題にはならない。一部の有名曲はたいてい誰もが演奏会の事情から手を出さざるを得ないから話題にならない。また、そもそも、知名度の低い曲は、誰も振らないから話題にもならないのである。
そのなかで、カラヤンのリストの管弦楽曲のレパートリーの広さは異常といえる。カラヤンを除くと、最近ベルリン・フィルハーモニーでティーレマンが取り上げたくらいである。ティーレマンの方が辺境度は高かったが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が取り上げるのはカラヤン以来数十年ぶりであることからも、選曲のこだわりが伝われば幸いである。資料が乏しいので、一年で何回ということは言えないが、感覚的に頻度が少ないのは確かである。
カラヤンが残したリストの楽曲は、ざっと見わたすと、ハンガリー狂詩曲数曲と、前奏曲、交響詩「マゼッパ」、メフィストワルツ、ハンガリー幻想曲、といったところである。ハンガリー狂詩曲の2番は、映像もあったはずで、他に撮るものがあっただろうと思わなくもない。
有名曲(なのです)がずらりと並んでいるが、ハンガリー狂詩曲5番なんて、リストが重要なレパートリーであるピアノですら全集を求めないと聴くことができないもので、つまり、無名といっても差し支えない曲である。カラヤンの選曲たまにこういうものがあって面白い。小品にも手を抜かなかったとよく言われるが、実のところはカラヤンが録音演奏したかったから、出来が良いのではないかしら。
リスト管弦楽曲 カラヤンのとった方針は、管弦楽が咆哮する部分がこの曲の聴かせどころとするものであった。和声も作風も違うが、カラヤンが指揮するR.シュトラウスの交響詩のようなもので、なぜかまとまる。これもよくわからないのだが、タンホイザー序曲を聴いている気分になった。
ファンファーレの痛快さや、中間部の甘美で節度ある歌は聴きものであろう。
ハンガリー狂詩曲2番は、リストが諧謔を音楽化したものの中でもっとも成功したものである。こういう言い方をすると、精神性を無視したなどといわれるかもしれないが、酒場の馬鹿騒ぎを音楽化したのは、ほかでもないリストであるし、リスト以外では今のところ誰も成功していない。動物的感興の精神を、否定するのがたやすく、捉えることがいかに難しいかは、リストの周辺の学会を見れば容易にわかる話である。
その傑作諧謔音楽を、希代の即興音楽家であるシフラは、そのもちうる語法で曲の核を拡大化した。悪魔ホロヴィッツは、対位法的旋律を追加して、リストの書法に内在する悪魔的側面を最大限に引き出し、諧謔と混在させて酒乱、乱痴気騒ぎを聴き手の脳に直接作用する芸術の域まで昇華させた。芸術家とは恐るべき存在である。
カラヤンのハンガリー狂詩曲は、管弦楽の威力に比してだいぶ大人しい。冒頭の低弦の咆哮からは何が始まるのだろうと思わせるが、渋く初めて踊って終わるという存外常識的な処理に終わるので、上で書いたような期待をもって臨むと肩透かしを食らう。前奏曲ほどに思い入れはないのかもしれない。リストの予測不可能の上下左右への放射を高速で叩き込む威力は私以外にはどう作用するのだろうか。
我が祖国抜粋 このアルバムの中で、出来がよいのは明らかに「我が祖国」の方である。
高い城は今回初めて聴いた。カラヤンの手の入れようは、直観では、管弦楽曲のおまけレベルの手の入れようだと感じた。交響詩というよりは、純粋に管弦楽作品のようだった。ただ、これは、この後に控えている屈指の名演かと思わせるモルダウがあるからそう思わせるのかもしれない。
無から旋律が膨張する カラヤンの大きく息を吸い込むような歌い回しは、類例をみないほどに特徴的である。これは弦楽でしかできない歌でもある。
その歌の威力がいかんなく発揮されているのがこの演奏ではなかろうか。例のアルペジオの中から突如として登場し、私を縛り付けた。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのものを前に聴いたが、ここまでの誘因力はなかったはずである。
モルダウの音楽づくりも、描写に供する管弦楽の揺り動かしもあって、こういうところに思い入れの差が出るというものである。
非常に書きにくい演奏だが、60年代のカラヤンの演奏の中でも指折りのものであると思う。
★★★★★
CD64 モーツァルト:ホルン協奏曲集
CD65 ロッシーニ:弦楽のためのソナタ集
CD66 プロコフィエフ:交響曲第5番
CD67
CD68 シューベルト:交響曲第9番D944

・シューベルト:交響曲7番(9番) D944
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
カラヤンのシューベルトは、他に
旧EMIに残した全集がある。
カラヤンが操縦する大ハ長調 随分と気合の入った演奏で、前の未完成交響曲と比べても覇気のようなもののみなぎり方が全く違っている。未完成のあれは、いったい何だったのだろうか。
カラヤンが音楽にもたらしたうねりも、構成の鋳型にしっかりと入っていて、充溢の音響空間と溌剌たる質感の両立の企図は成功している。歌心もあれば、情熱も十分。テンポを引き締め、前へ前へと攻め上っていく様は、古色蒼然とした「大ハ長調」なる巨匠風の先入観を、さっぱりと洗い流してくれるものだ。しかし、この気合の入れ具合は、必ずしも完全にシューベルトの楽曲に沿ったものではなかったように思われる。この違和感は、カラヤンの全作品でもシューベルトに於いてのみではないだろうか。例えば、あの強くて広々とした金管である。あのジークムントがとねりこの幹から聖剣でも引き抜きそうな、まるでチャイコフスキーの交響曲のような、金管の咆哮が頻発するのであるが、これは流石に度が過ぎるのではないだろうか。楽曲の表情を塗りつぶしているようなところも少々あるし、同じ型のものが続くから単調になるきらいもあった。金管の音色にも限界があるということだろう。私は別に、シューベルトは歌曲的な性格を持った作曲家であるから、それを優先して音楽に溶かしこみ、繊細な表現に努めるべきだ、という頭ごなしの批判めいたことを言いたいのではない。ここでのカラヤンは、ちょっと肩に力が入り過ぎて、我を忘れているのかも知れない、と言いたいだけである。
全体を概観して、これを些細なことと見るか否かは、個人の好みによるだろう。というのは、それを余りあるものが、ここにはあるからで、これの如何によって分かれるだろうからである。他では見ることのかなわない力学が働いていることは、第一楽章にしても、スケルツォを見ても、最後の延々と続く繰り返しを見ても明らかなのだし、カラヤンのような天才が新しい境地をもたらした部分もある。例えば、第一楽章、第二主題だろうか、音楽全体が暗くなって独白調になるところ、中音域の弦が細かく刻まれて歌に突入するのだが、カラヤンの場合では、速度を落とさずに突っ込んでいく。シューベルトは、ここでやりきれない感情の独白を始めたのではなく、声を落として、情熱はそのままに、我々に親身に語りかけようとしたのである。
シューベルトの歌曲的性質、あの何ともいえず望郷を催すあの旋律群の処理に関して、カラヤンの処理に不備があるとは、聴く前から考えもしなかったことで、思ってもいなかったが、実際のところ問題など微塵もなかった。例の、磨きあげられた、まるで唐素焼きの陶器のようなつやと光沢をもった、弦や木管たちのソロで奏でられる旋律たちは、それはもう美しいものであった。そして、ただ美しいだけではなかった。
★★★★
CD69 ドヴォルザーク:チェロ協奏曲、他

・ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
・チャイコフスキー:ロココ変奏曲
・チェロ:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1968年9月、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
世紀の名盤である。
オリジナルス・シリーズや、
シングルレイヤーSACD
で復刻されている。
吉田秀和著 世界の演奏家 ロストロポーヴィチ p.159-168参照
書きたいことはほとんど言い尽くされており、さらに、言うまでもないことであるが、私のものより数段素晴らしいものであるので、
そちらを参照されたし。端的にいえば、「凶暴な陶酔」だとのこと。私には逆立ちしても出てこない文句である。蛇足覚悟で付け足すなら、「言語に絶すると」評したチェロ協奏曲の方の2楽章は、陶酔そのものであって、前半に登場する管弦楽とチェロが和音をつくりながら下方向に音をスライドする部分は、聴き手も陶酔してしまう。やはり、聴いた方が早いか。
チェロの音が小さいとの評があって、確かにそうで、最初聴いたときは、あり得ないことだが、オーケストラのチェロ独奏かと思ったが、聴いているうちにそんなことはどうでもよくなってくる。
★★★★★
CD70 ベートーヴェン:『ウェリントンの勝利』、行進曲集
・ベートーヴェン:ウェリントンの勝利
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
ウェリントンの勝利について ウェリントンの勝利という曲は、ベート-ヴェンの存命時には、随分はやったのだが今日においてはすたれてしまった、という枕詞が付きまとう曲であろう。私のこの曲を聴いた率直な感想は、当時どうして成功したのだろう、であった。
要するに、カラヤンのスペクタクル創出の才をもってしてでも、おもしろくなかったということだ。


ニーチェの『悲劇の哲学』を読んでいたら、次の文章をたまたま見つけた。
「新ディテュランポスの絵画的音楽、つまり音による絵画的模写では、例の直観で感じるいろいろないとなみも、たちまち神話的性格をはぎとられてしまう。ここでは音楽が現象の模写になりさがってしまし、従って現象そのものよりもさらに無限に貧弱になってしまうのだ。こういう貧弱な音楽は、われわれの感覚からいえば、現象そのものをくだらなく感じさせるだけである。たとえば、戦闘を模写した音楽と言えば、進軍の騒音や合図のひびきなどにつきるのであって、われわれの空想はかえってこういう皮相なことにくぎづけになるだけなのだ。」
こういう一文が目に入るようになる。
CD71
CD72 ベートーヴェン:序曲集
CD73 ヨハン・シュトラウス兄弟ワルツ名曲集
CD74 スッペ:序曲集

・スッペ:「軽騎兵」序曲
・スッペ:「ウィーンの朝・昼・番」序曲
・スッペ:「スペードの女王」序曲
・スッペ:「美しきガラテア」序曲
・スッペ:「怪盗団」序曲
・スッペ:「詩人と農夫」序曲
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・セッションステレオ録音。
軽騎兵は、
エーリッヒ・クライバーがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でこの曲を取り上げて
いたりする。
カラヤンがヨハン・シュトラウスを取り上げたときの処理方法をそのまま適用したような内容。序曲にしては重すぎる。単独で取り上げる場合なら十二分と言った具合である。シンバルも音響効果のための存在ではなくて、音楽の一部なのだ。
それにしても、一部のベートーヴェンの序曲より出来栄えがいいとはどういうことなのか。
★★★★
CD75 バルトーク:弦楽とチェレスタのための音楽、ストラヴィンスキー:『アポロン』
CD76 弦楽合奏編曲集
CD77 オネゲル:交響曲集
CD78 『アダージョ』
CD79 ストラヴィンスキー:管弦楽協奏曲集
CD80 ベートーヴェン:『エグモント』

・ソプラノ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
・ナレーター:エリック・シェロー
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
・1969年1月3-6日、ベルリン、イエス・キリスト教会でのセッションステレオ録音。
カラヤンのエグモント全曲。他には
セル、ウィーン・フィルのもの
が有名。序曲は序曲集の使い回し。録音記録を見ると、正確には、序曲集の方が使い回しである。
声楽付交響詩 ナレーターがほとんどしゃべらないので、ヤノヴィッツが歌う以外はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が流れ続ける。というわけで、説明書きは、まぁ、初出時のLPにはついていたのだろうが、基本的には音楽で想像するほかない仕様となっている。これをそのまま受け取ると、交響詩的な仕上がりとなるわけで、もしかしたらこれが狙いだったりするのではないだろうか? とも思えなくもない。カラヤンのこの楽曲への気合の入れようは序曲集のレオノーレやフィデリオとは比べ物にならないし、細部の凝り方も交響曲のそれとは方針が違う。オペラで見られるカラヤンの音楽づくりに近い。
セルのものと比較すると、音楽の存在感にだいぶ違いがあって、セルはBGMであることを基調としているのだが、カラヤンの場合は、音楽主体の劇のようにも感じられてしまうほどに雄弁である。
ヤノヴィッツはセルのローレンガーと比べると、この勇壮な女性の役を演じるにしては線が細いように感じられるが、悪くはない。
★★★★
CD81 R.シュトラウス:協奏曲集
CD82 J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲集

・J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲1番
・J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲2番
・J.S.バッハ:2つノヴァイオリンのための協奏曲
・ヴァイオリン、第一ヴァイオリン:クリスティアン・フェラス
・第二ヴァイオリン:ミシェル・シュヴァルベ
・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
格調高い情熱的バッハ よく響き、和声の移ろいによって情感がつくられ、ロマンティックでさえあるカラヤンのバッハらしくないバッハに、フェラスのおしだしの良い豪快な味が加わるなら、もうバッハではなく、何か別のものになるのではないか?
そういう気分で敬遠していて、今回初めて聴いたが、果たしてそういうところはあった。バッハが情熱的なものをこの曲に封じ込めたことは、たぶん間違いではないのだろうが、それをここまで浮き彫りにされることを想像していただろうか、という気はする。まぁ、私の勝手な推測である。私にそう推測させるのは、これはヴァイオリン協奏曲だが、モーツァルト以降の意味での協奏曲であるのはもちろんのこと、それも飛び越えているからだ。まるでオペラのよう。
少々やりすぎな感が否めないというわけだが、それにしても、なんというオペラだろう。カラヤンの管弦楽は例によって一種の格調の高さをギリギリで保っている。その上フェラスのソロに当たると、大歌手の登場と言った趣がある。ききごたえは抜群で、協奏曲一番三楽章のうめくような呻吟をきくと毎回のように「こういうものがあってもいい」思う。
このような情熱的な歌(抒情を超えた力強さがある)をバッハの旋律に自然に乗せることができるフェラスという人の無伴奏が無いのは、悔やまれる。と思っていたら、
発掘された。喜ばしいことだ。
★★★★★
未完、随時更新